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約200年続く伝統行事、日本一の大凧を次世代へ。使命を持って守り伝える、相模の大凧文化保存会

例年5月4日、5日に相模川河川敷で開催される「相模の大凧まつり」。国や市の無形文化財、かながわのまつり50選などにも選ばれている相模原市を代表するイベントのひとつです。
 
会場では赤と緑で文字を書いた4つの大凧が、5月の南風を受けて悠々と空を舞います。一番大きい凧は8間、14.5メートル四方、重さも950キロと、実際に揚げる凧では日本一の大きさを誇ります。
 
大凧を作るのは、有志が参加する「相模の大凧文化保存会」の皆さんです。相模原市伝統の行事を守り、盛り上げようと熱心に活動しています。大凧の展示も行われている相模の大凧センターで、約200年続く伝統行事の歴史と、その歴史を継ぐ方々に想いを伺いました。
 
お話を伺ったのは相模の大凧文化保存会の現会長で下磯部地区大凧保存会の八木亨さんのほか、上磯部地区大凧保存会の大塚裕信さん、新戸地区大凧保存会の川﨑喜代治さんの3人です。

プロフィール
◆相模の大凧文化保存会 会長 八木亨さん(下磯部地区大凧保存会)1952年1月生まれ
◆上磯部地区顧問 大塚裕信さん(上磯部地区大凧保存会)1940年12月生まれ
◆相模の大凧文化保存会 元会長 川﨑喜代治さん(新戸地区大凧保存会) 1945年5月生まれ
 
◆相模の大凧文化保存会
相模原市南区新磯の、新戸・勝坂・下磯部・上磯部に受け継いできた大凧揚げを4地域合同で開催するため平成5年に誕生。毎年5月4日・5日の2日間で開かれる「相模の大凧まつり」に向けて、凧作りや会場準備、大凧文化の継承のため、400人ほどが活動(2023年11月現在)する。


ルーツは初節句のお祝い。4つの地域がひとつになったイベントに発展

「相模の大凧まつり」写真コンテスト(相模の大凧文化保存会主催)
最優秀賞「待ち望んだ8間凧」(伊藤和馬)

相模の大凧のルーツは天保年間(1830年頃)まで遡ります。現在のように凧が大型化したのは、明治時代といわれます。もともとは男の子の初節句を祝うために各家庭が行っていたものでしたが、地域の願いを込めた行事に発展し、今日に至るまで受け継がれてきました。

「相模の大凧文化保存会」が結成されたのは、平成5年のこと。昭和40年代半ばまでは、各地域の⻘年団による凧連の男性たちが行事の中心でした。しかし、核家族化や会社勤めをする人が増えたことで参加人数が減少。昭和44(1969)年から20年余りは、南区新磯地区の新⼾上磯部、下磯部、勝坂の4地域の⾃治会が、4年に⼀度の輪番で、凧揚げを開催していました。

平成3(1991)年になると各地域で大凧の保存会が組織され、平成5(1993)年には4地域の保存会で構成する「相模の⼤凧⽂化保存会」が誕生し、4地域それぞれが作った大凧を5月4日、5日に揚げる現在のスタイルになりました。

それぞれ活動していた4地域がひとつの組織を作ることになったのは、平成5年が相模原市の市制施行50周年だったこともきっかけでした。4年に1度だけではなく、毎年凧を揚げたいという気運が参加者の間に湧き上がったのだとか。

左から八木亨さん、大塚裕信さん、川﨑喜代治さん

「4地域が一緒になったときは、『新風』じゃないか?」「『新相』は、相模原と津久井が一緒になったときだね」などと、なにやらキーワードのような言葉が会話に混ざります。

『風と大地の饗宴』 記念誌 相模原市と相模の大凧のあゆみより

「新風」「新相」というのは、凧に描かれる題字のこと。太陽を表す赤と大地を表す緑で書かれる2文字です。題字は毎回公募によって選ばれます。現在の天皇皇后陛下がご成婚された平成5年は「慶祝」、令和元年には「令和」など、その年の世相を反映することもあって、保存会の人たちは題字とセットでその年の大凧まつりを記憶しているようです。

竹の切り出しをスタートに、制作にかかる期間は約半年

相模の大凧文化保存会の会員は4地域を合わせて現在400人ほど。中には植木屋さんや大工さんなどもいて、それぞれの得意な技術で凧作りに貢献しています。
 
凧作りのスタートは毎年10月ころに行われる竹の切り出しから。「秋に切る竹はもちがいいんですよ」と八木さん。成長の早い竹は、春から夏には水をどんどん吸い上げますが、秋になると竹が吸い上げる水分は少なくなり、乾燥しやすく、重量も軽くなるのだとか。
 
凧作りで最も重要なポイントは、竹の見極めです。凧の骨組みにする竹は、同じように曲がるもの同士を並行に組み合わせています。「縦はまっすぐの方がいいけれど、横は鳥の羽のようにしなやかにならなくちゃいけない。そのために先端が外側になるように組み合わせるんですよ」と川﨑さん。

会場となる河川敷で、乾燥させた竹を割いていく

使われるのは真竹と篠竹の2種類で、8メートル以上のものがほとんど。切り出したあと、凧揚げの会場となる相模川河川敷に運び、乾燥させます。12月から1月にかけて、乾燥した竹を割く作業が行われます。

風を通しつつ、破れにくい丈夫な和紙を繋げて使用する

もう1つ、和紙も凧作りにおいて重要なポイントを担っています。現在、相模の大凧に使っている和紙は東秩父村の細川紙。手すきで作られた和紙は繊維が重なりあっているため強度が高いうえ、風を通します。強い風が吹いた時に綺麗に風が抜けていくのでバランスが取れるのだそう。
凧に貼り付ける和紙の準備は相模の大凧センターで行われます。2月には和紙を大凧の大きさに貼り付ける作業、3月から4月に公募で決まった題字を和紙に書く作業と続きます。4月になるといよいよ凧作りも大詰め。凧の骨に43本の糸目がつけられます。そしてまつりの当日に、題字を書いた和紙が凧の本体に取り付けられることになっています。
 
凧の作り方は「何も足さない。引いてもいけない」のだとか。昔から伝わるやり方を守っていくことを保存会の人たちは大切にしています。
 
相模の大凧は、国内でも稀な正方形をしているのも特徴です。「真四角の凧は揚げるときバランスが悪い。でも先代たちがそうしてきたから、変えられないんですよ」と川﨑さんが話します。
 
凧作りや凧揚げ当日の役割について、従来は口頭での伝承が行われてきましたが、最近では地域によって手引書を作成したり、勉強会も行うなど、次の世代に技術を引き継ぐための活動にも力を入れています。

盛大なまつりに欠かせない会場の準備も保存会の仕事

凧作り以外の行事も有志で集まる

まつりに向けた保存会の仕事は、凧作りとその技術伝承だけではありません。
「いろんなお客さんが来るからね」と、会場の草刈り、駐車場となる広場でのライン引き、警備の手配、各自治会からテントを何張も集めて設営するなど、さまざまです。
 
まつりの日は、6万人近い人が凧揚げを見にやってきます。多くの人が見守る中、地域ごとにそれぞれ60人以上の人が役割を分担して凧を揚げます。「揚がった瞬間はなんとも言えない感動で涙が出るよ」と大塚さん。凧が空を舞うと観客からも、歓声が上がります。
 
4地域最大の新戸の凧はおよそ950Kgにも及びます。揚げる時は100人ほどの人が綱を持ってコントロールしますが、大きな凧が風に吹かれると、あらぬ方向にいったり、綱の持ち方が悪くて宙吊りになる人が出たりと、危険な状態になることもあります。過去には怪我をする人もいたため、鉄棒の逆手のように綱を持っていることを事前に確認するなど毎回細心の注意が払われています。
 
大空に舞った凧は、風が止む午後5時ごろまでには自然に降りてくるのだとか。半年近くをかけて作った凧ですが、まつりが終わった翌日5月6日にはお焚き上げとして燃やして処分することになっています。もったいない気もしますが「縁起物だからね」と大塚さん。

凧作りを通じて深まる地域との繋がり

保存会の会長、八木亨さん。地域活動では相模の大凧文化を伝える

お話を聞かせてくださった皆さんは全員相模原育ち。現在会長を務める八木さんは、「4地域が一緒になった25年ほど前に、声をかけてもらって凧に携わるようになりました」と言います。もちろん子どもの頃から相模の大凧まつりには来ていたそう。ただし「凧よりも出店が楽しみだった方ですね」と凧に興味を持ったのは大人になってからだとか。

大塚裕信さんは、凧作りのレジェンドと呼ばれているそう

大塚さんは仕事を定年退職してから関わるようになったため「まだ20年ぐらい」と謙虚です。しかし雨などで作業が遅れると、平日にひとりでも作業を進めているのだとか。「好きだからね」と凧作りに情熱を持って取り組んでいます。

川﨑喜代治さんもレジェンドと呼ばれ、もう50年以上も大凧に携わっている

そして、「相模の大凧文化保存会」会長を務めた経験もある川﨑さんが大凧に携わり始めたのはなんと20代の半ばから。「この土地の風習だから」と、当然のように凧に関わるようになったのだとか。今は「相模原市観光マイスター」として、相模原市内の小学校で凧作りを教えています。

川﨑さんが20代の頃、つまり昭和40年代、新磯地区は米を作る農家がたくさんありました。当時の田植えは6月初旬。農家の男性たちは田植え前の楽しみとして凧揚げに興じていました。いい風が吹いてくると太鼓を合図に男性たちが凧揚げに集まったのだとか。「田んぼに藁で番小屋を立てて、中で一杯。これが目的」と親指と人差し指でお酒を飲むポーズ。

凧揚げは、初節句のお祝いのほかにも、地域の男性たちにとって社交の場としての意味合いもあったようです。

八木さん、大塚さん、川﨑さんは、年齢も地区もそれぞれ異なります。この3人も、「凧がなければ知り合うことがなかった」と言います。祭りのために集まり、語り合い、信頼関係を築いた人達と、日ごろ顔を合わせれば世間話も弾みます。凧の仲間に、仕事を依頼するということもあるそうです。「凧に入っているだけでね、歩けば皆挨拶をするような地域だった。友達がね、無限大にできる。その喜びがあった」と、川﨑さんは昔を懐かしみます。その風土は今もなお、この地に根付いています。すごく楽しいことだと思う、と口をそろえる姿に、地域の祭りの意義を感じさせてくれました。

地域の要として未来に繋げる凧揚げ

相模原という地で、引き継がれてきた凧作りの文化。戦時中は、凧揚げが途絶えた時期もありました。戦後、「もう一回、出発しよう」と皆を集めて大凧まつりを復活させた、立役者がいました。先輩が繋いでくれた文化を存続させたい。この地域で守りたい。そのために、各自ができることを続けています。

戦後、最初に凧揚げを復活させた西山一朗氏

しかし時代の流れとともに、高齢化やライフスタイルの変化で徐々に参加人数が減っています。
それでも、先人達が繋いできた伝統行事を「やっぱりこの地域で守りたい」という思いは強く、凧揚げ・凧作りに参加しませんかと、地域住民への呼びかけを続けています。そして、社会人になって外に出て行ってしまった子供たちも、ぜひ、祭りの時だけでも戻ってきてもらいたいと思っています。

小さな凧を作り、実際に凧揚げを体験してもらうことも

大凧に興味を持ってくれる人を増やすための活動にも熱心に取り組んでいます。地域の小学校や近隣にある米軍基地内で小さな凧作りの教室を行ったり、他のイベントで凧を飾ったりして、凧の魅力を伝えています。最近では、インバウンドや観光客の受け入れも新たに取り組んでいます。
そんな中、最近、女性のメンバーが大学生の息子さんを伴って保存会に参加し始めたという明るいニュースもあります。
 
様々な変化を経て、歴史をつないできた相模の大凧。「相模の大凧文化保存会」の皆さんの想いがある限り、相模原の伝統文化としてこれからも長く愛されて行きそうです。

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■相模の大凧まつり
https://www.e-sagamihara.com/event/event-736/

■相模の大凧・新戸大凧保存会
http://www.sagami-oodako.com/
 
■相模の大凧・上磯部大凧保存会
https://oodako-kamiisobe.sakura.ne.jp/
 
■相模の大凧・勝坂大凧保存会 公式Xアカウント
https://twitter.com/sagami_oodako_k
 
■新磯ふれあいセンター・相模の大凧センター
https://renge-araiso.jp/kite/
 
■相模原市観光マイスター
https://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/kankou/1026674/1026704/1026705/1019688.html

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