相模原市・藤野を拠点にしたパイプオルガン製作。土地柄が現れる温かい音色に魅せられて
神奈川県の北西、山梨県との県境にも近い藤野は、緑豊かで鳥のさえずりが絶えず聞こえる山間にあります。
藤野は多くの芸術家たちの活動拠点となっていて、横田宗隆オルガン製作研究所も2015年に開設されました。
代表の横田宗隆さんは、少年の頃に荘厳で温かみがあるパイプオルガンの音色に出合って、大学時代にパイプオルガン建造家の道を志します。
大学卒業後は日本で修業したのち、36年もの間、欧米でパイプオルガン製作とその古典的な製法の研究に邁進。世界的なパイプオルガン建造家となりました。
日本に戻りパイプオルガン製作の場として藤野を選択した背景にはどのようなことがあったのか、そして藤野の環境をどのように思っているのか、お話しいただきました。
14歳で出合ったパイプオルガンの音色と建造家への道
横田宗隆さんがつくっているのはパイプオルガンです。コンサートホールや教会などに設置されていて、大小のパイプに風を送り込むことで音が奏でられることは、ご存知の方も多いでしょう。
パイプオルガンが発明されたのは紀元前300年ごろと言われ、世界中に数多ある楽器の中でも長い歴史を持ちます。天文学や神学など多くの学問の影響を受けて発展し、中世になって、キリスト教と結びついてヨーロッパ各地の教会に設置されました。
横田さんは幼少期からクラシック音楽や古美術が身近にあり、ピアノでバッハを弾く機会もあったなど、古い音楽や美術に親しんできました。パイプオルガンの音に出合ったのは14歳のクリスマス。偶然手に取ったレコードから流れてきたバッハの荘厳な音色に圧倒されます。
その一方、おもちゃを作ったり、時計を分解してしまったりする工作好き。高校と大学ではフィールドホッケー部で活躍するスポーツマンでもありました。
大学で専攻したのは経済学です。父も祖父も銀行員という家系で、いずれはそれなりの企業に就職することを意識した選択でした。しかし、横田さんが大学時代を過ごした1970年代前半には、60年代から続いていた学生運動がこじれ、凄惨な事件も発生。キャンパスには緊張感が漂っていました。
熱中していたフィールドホッケーでは、目標としていた日本選抜チームに入ることができず、努力をしても、あらゆる適性がなければ世界レベルに達することができないと思い知らされます。
自分は一体、どんなことが得意で好きなのか。改めて考え、高校では物理や数学、美術が得意で、時計のような精密機械いじりとバッハの音楽が好きだったことなどを総合すると、パイプオルガン製作への道が浮かび上がったのです。
そしてパイプオルガン建造家の辻弘氏に弟子入り。その後アメリカでも修業します。
欧米で研究と実践を重ねた、土地柄が現れるパイプオルガンづくり
アメリカに渡って17年を過ごしたのち、スウェーデンの大学では21年もの間、研究者として古い時代のパイプオルガン製作の研究を行ってきました。
横田さんはアメリカ在住時、カリフォルニア州立大学でのパイプオルガン製作においてオンサイト・コンストラクションに挑みます。オンサイト・コンストラクションとは、パイプオルガンが設置される場所に移り住んで、地元の大工や指物師といった技術を持つ人たちと、現地で調達できる材料で製作することです。横田さんがチャレンジするまで200年以上行われていませんでした。
オンサイト・コンストラクションという製造方法に強く惹かれたきっかけは、20代半ばで訪れたドイツにありました。各地にあるパイプオルガンの音色がその土地に住む人たちの発声方法にどこか似ていると感じたのです。
オンサイト・コンストラクションでは、その土地で手に入る素材を用いるため、特に木材のパーツは、性質に応じてつくり方を変える必要があります。つまり、パイプオルガンは1台1台異なるだけでなく、素材や製造方法には土地柄があり、その結果、土地の人たちに親しみのある音色が生み出されてきたと横田さんは考えています。
パイプオルガンが完成すると盛大に祝われます。工房ではパーティーが催され、教会で検査を兼ねた演奏会が開かれることも昔からの習わしです。こうして、パイプオルガンの音色は製作に携わった人や地域の人に寄り添い、その心を慰める存在になっていきます。横田さんは藤野の地で製作するパイプオルガンも、出荷前に仮組みをしてお祝いのパーティーを行いたいと考えています。藤野でも地域の人たちと一緒に、楽器を製作していると強く感じているからです。
藤野の地で後進育成。パイプオルガンをもっと身近な存在に
海外で長く過ごした横田さんが日本に永住帰国を決めたのはどうしてなのでしょうか? スウェーデンで研究者として60歳を迎えたころ、横田さんは後進の育成について考え始めます。大学ではすでに技術を持った専門家へのセミナーは担当していたものの、若い学生への講義は受け持っていませんでした。
帰国を心に決めると、関東圏を中心に工房の候補地探しを開始。友人から工芸家や芸術家が集まる土地があると教えられて初めて藤野の地を訪れます。
同じ日、もうひとりのキーパーソンである桑原敏勝さん(現 一般社団法人藤野エリアマネジメント理事)にも出会います。農業生産法人藤野倶楽部を経営し、アメリカでの経験もある桑原さんとはすっかり意気投合。
それから1年半後の2015年に横田さんはスウェーデンから藤野に製作拠点を移しました。
現在もアートビレッジにアトリエを持つ皮の工芸家が横田さんの工房を手伝っています。安定した収入の確保以外にも、技術の向上にも役立ち、まさにwin-winの関係だとか。他にも、古くから藤野にある鉄工所のマルヤマ機工や、藤野倶楽部を手がけた関戸大工、材木屋の藤商木材、家具製造のBC工房にも仕事を依頼。設立時に看板の文字を依頼したのは、近くに住む書道家と地域のコミュニティが横田さんの仕事に関わっています。
藤野に拠点を移して、8年となる横田さん。水が豊かで、緑と山が多い環境はパイプオルガン製作にプラスの影響があると言います。
藤野のさまざまな人と協力関係を保ちながら、いくつかの小型のパイプオルガンや、教会から依頼されたパイプオルガンを完成させてきました。その中にパイプオルガンとしては小さなポルタティーフオルガンがあります。弟子である加藤万梨耶さんとともに作り上げた楽器で、加藤さんが演奏もおこないます。
「この楽器を使って、藤野倶楽部でもコンサートを行いました」
そして2020年には、組み立て式構造学習オルガンという楽器を製作。音が出る仕組みも含めて藤野地域の子どもたちにパイプオルガンに興味を持ってもらおうと、第一回は藤野芸術の家クリエーションホール、第二回は相模湖交流センターラックスマンホールで「パイプオルガンと遊ぼう!」というワークショップも開催しました。同じパイプオルガンを使って、新進気鋭のオルガニスト竹岡幸平さんを招いた定期演奏会を藤野倶楽部「百笑の台所」でも開催しました。
また、コロナ禍前には工房の見学会も実施。
「パイプをつくる作業と鍵盤を作る作業はパイプオルガン独特のもので、ご覧になった方にも好評でした」
パイプづくりは、鉛や錫などを炉で溶かすところから始めます。溶けた金属を御影石の上で板状にして、裁断してから丸めて半田付けという作業は中世と同じなのだとか。
こうした催しは、日本でもパイプオルガンという楽器が身近な存在になってほしいという横田さんの思いから、やはり藤野をはじめとする周囲の人たちの協力で開催されています。横田さんにはオルガン練習のためのスタジオや、地域の人たちが携わったパイプオルガンがある場所を作りたいという夢もあります。
藤野でつくられたパイプオルガンの音色から、未来のオルガニストやパイプオルガン製作者が生まれ、地域の人たちの心豊かな暮らしにもつながっていくのかもしれません。
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■横田宗隆オルガン製作研究所
https://munetakayokota.com/
■藤野エリアマネジメント
https://fujino.town/
■藤野倶楽部
https://fujinoclub.co.jp/
■LEATHERCRAFT CHAOS13
https://www.leathercraft-ck13.com/
■BC工房
http://www.bc-kobo.co.jp/
■百笑の台所
https://fujinoclub.co.jp/restaurant