奄美大島の「大島紬」を相模原で。伝統を受け継ぎ、想いを紡ぐ
JR相模原駅から歩いて数分の工房「-TSURU-(つる)」で、大島紬(おおしまつむぎ)を織る、中川裕可里さん。奄美大島で3年半の修行を積んだ後、帰郷して工房を立ち上げました。工房名の由来は昔話の「鶴の恩返し」。職人を目指した自分を育ててくれた奄美大島と、生まれ育った相模原に恩返しをしたい、そんな思いが込められています。
大島紬は1300年の歴史を持つ伝統工芸で、フランスのゴブラン織、イランのペルシャ絨毯と並び、「世界三大織物」の1つと称される絹織物。その技術と美しい柄の魅力に引き寄せられた中川さんに、お話をうかがいました。
やるなら最難関、最高峰にチャレンジしたい
中川さんは旧津久井郡城山町(現・相模原市緑区)で生まれ育ちました。小さな頃から着物を着たいという思いがあり、二十歳になると呉服屋さんの着付け教室に通い始めます。祖母の着物を借りて練習していると1着だけ、とても軽い着物がありました。
運命的な出会いを果たした後は、あっという間に大島紬に魅了されていきます。調べてみると、さまざまなことが分かりました。「世界三大織物」の1つであること、1着100万円超える値が付くケースもあるほど高級な着物であること、白い布に後から描かれたと思っていた柄が、実は染色した糸で織った絣(かすり)と呼ばれる模様であること、織るために非常に高度な技術が必要であること。知れば知るほど、自分でも織ってみたい、という思いが募っていきました。
思いが高まっていた時に、タイミング良く大島紬の展示会がありました。そこで後にお世話になる親方の母親(大女将)と出会い、「奄美大島で大島紬を織りたいです!」と伝えます。ところが、大女将はなかなか首を縦に振ってくれません。中川さんは後で知ったのですが、弟子入りをしたものの辞めていく人たちが、過去に何人もいたからです。中川さんは自分の本気度を示すため、1日だけでなく、催事会場を3件ハシゴして猛アピールします。大女将は中川さんの熱意に折れる形で、「そこまで言うなら1回、現場を見に来なさい」と言ってくれました。2013年2月に奄美大島へ下見に行く頃にはもう、何があっても移住すると心に決めていました。そして同年8月、南の島、奄美大島へと渡ります。
週7日、2台の機(はた)で織り続け、技術を身につけた修行時代
中川さんにとって、奄美大島は居心地のいい場所でした。なぜなら、街と豊かな自然が共存する環境は、相模原に似ていたから。相模原市のキャッチフレーズ「都市と自然のベストミックス」は奄美大島にも通じるものがあります。加えて、奄美料理も口に合ったため、不自由のない環境で、念願の修行生活が始まりました。
大島紬には、いくつもの特徴があります。光沢を抑えて優雅に輝く表面の質感。冬でも寒さを感じさせない暖かさ。着れば着るほど体に馴染む着心地の良さ。
その特徴を生み出す理由に、大島紬が絹100%で作られていることがあげられます。一般的に大島紬は、先染め手織りされていること、絹100%であること、経糸と緯糸で織る平織りであることなどの基準が設けられています。
また、織り上がるまでには、およそ30もの工程があります。図案の制作、織物の設計、原料となる絹糸を締機(しめばた)によって木綿糸で締める絣締め(かすりじめ)、染色、木綿糸を外して柄のついた絣糸を取り出す絣筵解き(かすりむしろとき)などなど…。とてつもない手間と時間をかけて、形にしていきます。そして、最終工程の「製織」で、ようやく中川さんの出番となります。
休みなく修行を続けた中川さんは、どんどん上達します。その中で感じたのは、織ることそのものよりも、機に糸を掛けて織れる状態にする作業の方が大変だということ。なぜなら、もともと図案に沿って染められ、いったんバラバラにした1000本を超える糸を、間違えることなく機に掛ける必要があるからです。1本でもズレたら、正しい模様が完成しません。しかも、一度糸を掛けたら、着物2着分、全長26メートルの織物を織り終えるまではその作業をすることができないのです。ただ、中川さんは養成所と工房、2台の機を使って2着ずつ織り続けた上に、織るスピードも上がっていたため、大島紬を織る上で最も重要な、糸を機に掛けるという作業を他の人よりも多く経験することができました。初心者であれば1年に1回しか経験をできないその作業を、中川さんは年に2回以上経験できたのです。
奄美大島での大島紬の生産反数は約2960反(2022年)で、40年前から年々減少を続けています。30万反に迫る生産量があった50年前と比べると、およそ100分の1になってしまいました。職人たちが適正な収入を得ることができない原因は、ここにあるのかもしれません。中川さんも、織って得られる収入はごくわずかで、夕方から夜までアルバイトをするだけでは生活ができるわけもなく、貯金を切り崩してなんとか生活を続けているという状況でした。金銭的に、これ以上、奄美大島で職人を続けることは難しくなりました。出した結論は、奄美大島の外から、大島紬について発信し、普及活動をしていくこと。お世話になった親方や大好きな奄美大島に別れを告げ、2017年、3年半ぶりに相模原市へと戻りました。
世界で唯一の技術に価値がある
帰郷してJR相模原駅の近くの一軒家を工房として借りた中川さんは、奄美大島の親方から譲ってもらった機で、大島紬を織り始めます。関東にいる大島紬の職人は中川さんただ一人。そんな特性も生かして、中川さんの新たな挑戦が始まりました。身近に大島紬を手軽に身に付けられるよう、レジンを使ったハンドメイドのアクセサリーを制作・販売を始めます。
興味を持ってくれた人のために、体験用の機を取り寄せて、機織り体験や機織り見学も始めました。多い時には月に7人程度が参加しています。およそ4~5時間かけて、15cmほど、しっかりと柄を織ります。もちろん糸も奄美大島から取り寄せたもの。織り上がった正真正銘の「大島紬」は額装してプレゼント。このように本格的な体験ができるのは、「-TSURU-」だけでしょう。さらには本場を知ってもらうため、奄美大島への体験ツアーも今までに2回実施しました。
大島紬の機織り見学と体験は、今年(2024年)から、相模原市のふるさと納税の返戻品としても認定されました。奄美大島の外から大島紬の良さを発信していきたい、という中川さんの思いは、確実に形になっています。
どことなくのんびりとした雰囲気のある中川さんですが、話す言葉には情熱があります。世界に誇る奄美大島の伝統工芸を絶やしたくないという気持ちを、明るく、しかしはっきりと口にします。
相模原産の機と奄美大島の融合を目指して
現在の中川さんの悩みは、親方から譲ってもらった機がゆがんだり、木にヒビが入ったりしていること。奄美大島からの輸送の際に木を切断したことや、現地と相模原市での湿度の違いが原因です。ゆがんだ機では微調整が必要になり、当然、不要な作業が発生し、効率も落ちてきます。そこで中川さんは新たな機を作ることができないか、相模原市役所に相談しました。中川さんが生まれ育った旧津久井郡には広大な森林があり、津久井産材というブランドの木材が生産されているからです。現在、相模原市役所は津久井の人々を通して機を作る専門家を探し、中川さんは奄美大島の親方を通じて機の設計図を探している、という状況です。
奄美大島では、機を作っている会社はなくなってしまいました。これまで使っていた機も、織る機会がなくなるにつれて、邪魔だからと燃やしてしまうそうです。生産量が減り、大島紬を作っていた伝統産業が衰退してしまう現状をなんとか食い止めたい、それが中川さんの一番の想いです。
着物が好きな人は今でも大切な場面では大島紬を着てくれますが、さらに大島紬を盛り上げるために、中川さんには、ある想いがありました。それは相模原市の名誉観光親善大使である有名モデルとのコラボです。
相模原という経(たて)の糸と、奄美大島という緯(よこ)糸を使い、中川さんは今、新たな“織り”に挑んでいます。織り上がった時には、どんな柄を見せてくれるのでしょう。
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■-TSURU-
https://tsuru-oshimatsumugi-moderncrafts.com/
■-TSURU-(Instagram)
https://www.instagram.com/tsuru.yukari.n/
■本場奄美紬大島協同組合
https://amamioshimatsumugi.jp/
■夢おりの郷(大島紬体験テーマパーク)
https://www.yumeorinosato.com/